2021.11.22

朝。眠い。

コーヒーを飲んでぼーっとする。何が食べたいかわからず朝食はなし。

稽古準備を用意する。

お昼は白菜と野菜いくつかを小さい鍋にして、ご飯とおろし納豆。

出発。どんどん曇り空に。

山に登ったことが少しずつ言葉になって来た。

約2年くらい「〇〇だから行く」「〇〇を考慮して行かない」というような、自衛や公衆衛生と生活を考えて移動するか決める思考にすっかり慣れてしまっていた。その気になればわたしはどこへでも行けるという感覚や、シンプルにそこは行きたい場所なのかを自分に問うことそのものを取り戻したかったんだと思う。

今まで「見たい展示や観たい公演、会いたい人がいるから」という目的があってその場所に行きたいという希望が多い人間だったのに、「(景色など見るものはあるにせよ)目的そのものが行くこと」である登山を急にしたくなったのもそれでなのかなと考えた。自分は行けるという実感。

ご年配のかたが多くハイキングにでかけるのも歩けるうちに「自分は行ける」という感覚が味わえるからなのかな。主語がでかいな。

散歩はもともと好きなので、歩くこと、行くことについてもうちょっと考え続けたい。

電車の窓から雨を眺める。

14時ごろ甲府着。30分ほど駅で買い物したりなんだり。

劇場着。談笑しつつ前回からの段取り確認、改めて不要なセリフカット。寝かせてあったので全員冷静。

途中サプライズの電話一件。めでたい。

心の波立ちを感じながら稽古に戻る。ほぼ全ての段取りがついた。伴侶合流。

稽古終わり。駅まで送ってもらう。冗談を言い合う中で甲府のラブホテル事情を県民から聞く。おそらく一生活用できなそうな話をまた真面目そうな人が真面目に語ってくれるから爆笑した。

帰りの電車。ぽつりぽつり今日のことを話したり、市民ミュージカルの方の台本確認。

駅から自分たちのいないところで人が変化していくことの喪失感やさびしさについて話す。寄る辺なく感じたり本質的に孤独を感じるときの癒やし方は伴侶とわたしには明確なギャップがあるので、それを分かち合えない寂しさは一生ものだと思う。けど対話する姿勢など、私たちが満足している面で分かち合えない寂しさを感じる人もいるのだろうし、全ての穴を一人の人間で埋めるのは無理だと思う。

今日はコンビニご飯はつらいので、帰って食べることにする。

帰宅。野菜の蒸し焼きのパスタ。旬の白菜は噛むほどに甘くておいしい。

小学校演劇の本番と本番の中日はどうする?と確認したら稽古が入るかもしれないから開けてある。と返事があった。

仕事モードの返事で、わたしの誕生日なことはやはり抜け落ちてるな、と思った。し、言った。いつもなら平気なハレの日へのうとさが今日の寂しさをマックスにした。毎年こういうやりとりがあって誕生日近く、一回は落ち込んでる気がする。だんだん忘れてしまうようになるというよりもともと特別な日を認識するのが苦手なんだからまだいいのかもしれない。

静かに寝る準備。なかなか寝付けず布団のなかでジタバタする。思えば情報量の多い1日だった。

BEASTERSの続きを読んでるうちに寝落ち。